●プロフィール
昭和47年(1972年)岩村田高等学校卒業
昭和53年(1978年)成城大学経済学部卒業
昭和62年(1987年)2月 衆議院議員 羽田 孜 秘書
平成3年(1991年) 4月7日 長野県議会議員 初当選
平成10年(1998年) 3月 議会運営委員会 委員長
平成11年(1999年) 5月 長野県住宅審議会 会長
平成12年(2000年) 3月 議会総務警察委員会 委員長
平成13年(2001年) 4月 長野県私学振興懇話会 会長
NPO熱気球運営機構 副会長(現職)
緑新会県議団 代表
平成22年(2010年) 3月15日 第84代 県議会議長
平成24年(2012年) 12月14日 衆議院議員当選
令和3年 (2021年) 12月 千曲会 会長(現職)
令和4年 (2022年) 4月 新政信州 代表(現職)
「感 謝 」の 二 文 字
昭和47年2月には札幌冬季オリンピック開催、赤軍派によるあさま山荘事件、5月には沖縄返還。そんな激動の時代の中で私は岩高を卒業しました。
私の家は立科町にあり、岩高から20㎞も離れています。従って高校生活の3年間は、親元を遠く離れ「自由に羽ばたきすぎた3年間」といえるかもしれません。バイク通学、早弁、少し崩れた長ラン、大学紛争の高校への飛火等々、受験勉強などどこ吹く風であった。
中学時代からやっていた剣道部に入り、友情を深めるとともに、他高の剣道部との交流で友人も沢山でき楽しかった。化学班にも所属して文化祭の発表の題材を決めるのに仲間と熱く議論し、泊まり込みで準備をしました。更に、吹奏楽班でもないのに、文化祭での吹奏楽発表会の司会を仰せつかるなど、思い出深い高校生活でありました。
決して真面目とは言えないが、それなりに仲間と共に有意義な高校生活を送っていたように思う。あの頃は、バンカラを「良」とするような岩高気質が心地よかった。友人もできたし、謹慎処分もいただくなど、良きも悪しきも様々な経験をすることができた3年間。今思えば、あの頃の経験が今日の私に繋がっています。
東京で社会人になりサラリーマン9年目の頃、父の手術を契機に、農家の長男である私は、「いつかは故郷に帰る」と考えていたので長野に帰り、衆議院議員である羽田孜先生の秘書になりました。これが以後の私の人生を大きく変えることになりました。
上田市内に住み、秘書に専念して4年目の頃、生まれ在所の北佐久郡の皆様から推されて県議会議員選挙に出馬し、当時37才最年少で初当選することができました。以来6期県議会で働かせていただき、県議会議長にも就任することができました。
更に、羽田孜先生の志を引き継ぎ、平成24年の衆議院議員選挙に挑戦したとき、あの大逆風の中で私のために、本当に一生懸命に応援してくれた「岩高の友」のことを私は絶対に忘れません。お陰様でわずかな期間ではありましたが、国会議員として思う存分働くことができました。私は本当に多くの皆様にご指導を頂くことができ、運が良かったのだと思います。議員になることを決意したとき、私は「人の心の痛みに寄り添える政治家になりたい」と思いました。この思いに至ることができたのは、岩高時代に多くの友と出会い、様々な経験をすることができたからです。
(岩村田高等学校百年誌より抜粋)