長野県岩村田高等学校同窓会

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長野県岩村田高等学校創立100周年

長野県岩村田高等学校同窓会

活躍する卒業生  柳沢 正人さん(高26回)

プロフィール

1955年 長野県佐久市に生まれる

1979年 東京芸術大学大学院美術研究科日本画専攻修了

1982年 春季創画展春季展賞受賞

1983年 文化庁芸術家国内研修員となる。神奈川県展準大賞受賞

1988年 個展(資生堂ギャラリー)

1989年 第10回山種美術館賞展出品(同’91’9395)

1990年 個展(東京セントラル絵画館)

1992年 第2回五島記念文化賞美術新人賞受賞

     五島記念文化賞によりイタリアフィレンツェ海外研修

     両洋の眼現代の絵画展出品(同’93’94’95’9698’99,2009)

1993年 第2回菅楯彦大賞展大賞受賞

     個展(プレトリオ宮殿、フィレンツェ、チェルタルド)

1994年 NHKラジオイタリア語講座テキスト・表紙絵担当(~’97)

1995年 個展(箱根芦ノ湖成川美術館、同‘98,2001’04’08’12’17)

     個展(資生堂ギャラリー)

     甘楽町ふるさと大使に任命される

1997年 個展(カルカッソンヌ城 フランス)

     メディチ・リカルディ宮殿に作品収蔵(フィレンツェ

1999年 NHK総合テレビ、土曜美の朝「刻を描く」放映

2001年 龍雲寺(佐久市)襖絵全24面制作

2002年 貿易風(プレトリオ宮殿にてコラボレーション フィレンツェ)

2003年 個展(日本橋高島屋) 三正展(旧本陣記念館)

2004年 海浜幕張ワールドビジネスガーデン円形ドームに1,8×75mの壁画設置

2005年 個展(佐久市立近代美術館)

2006年 個展(五島美術館 東京上野毛)

2007年 画集刊行(求龍堂グラフィックス)

2010年 個展(日本橋高島屋)美の潮流展(BUNKAMURA ザミュージアム)

2014年 個展(日本橋三越本店)

2021年 個展(日本橋三越本店) 2022年 個展(箱根芦ノ湖 成川美術館

柳沢正人さんご紹介

1979年に東京藝術大学院日本画科を卒業し、文化庁の芸術家国内研修員となりました。
数多くの受賞歴もお持ちです。

日本画家でありながらその行動範囲が非常に広く、日本画は日本独自の様式を汲んだ絵画である関係上、モチーフとなるものも日本国内のものが多い中、その固定概念を覆し世界中の美しい風景を日本画の技法を用いて描いています。

 特に世界遺産のある国々を数多く訪れており、その数は実に20か国を超えています。その土地ごとに見た世界遺産を日本画の技法を使って表すことによってその建築物の新しい面を開拓しています。

そんな柳沢正人さんの熱い思いと高校時代の思い出をインタビューしました。

日本画家を志して

柳沢正人(高26回・昭和49年卒)

 岩高を卒業して半世紀が経ちました。思春期の3年間は長く、その後の時の流れはあっという間という気がします。云うまでもなく岩高は山に囲まれた雄大な地形にあり、中でも浅間は幼少期から高校を出るまでの私の人間形成に多大な影響をもたらしました。噴火の爆音と振動、もくもくと上がる黒煙に授業を中断して見入った事を覚えています。学生歌大浅岳に歌われたとおり、将来何処にいてもこの活火山のように燃え(たぎ)る思いを忘れずにいよう。
〝青雲の志しかくあらん〞と胸を震わせたものでした。

 さて私の高校時代は部活動に汗を流したとか勉学に精を出した訳でもなく、又文化祭も体育祭も修学旅行も何故かこれといった語れるだけの思い出がありません。ただ目立たない生徒だった気がします。幼い頃から絵が好きで当時から目標にしていた芸大受験の為、美術室に籠って、ひたすら石膏デッサンと油絵制作に明け暮れていました。暗いと思われるかもしれませんが、芸術はやはり個の作業であり、当時の私にとっては目標に向って進む為の唯一の手段だった気がします。

 その頃まず思い浮かぶのは美術科の教諭であった笠井治先生の事です。先生は芸術家というよりそれを超えた独特な雰囲気を持った方で、自分を見て何かを掴み取れとでも言わんばかりの名物先生でした。その存在感は他にないものがあり、いつも冗談を言っては周りを笑わせていました。

 又、中学で岩高出身の先輩日本画家鈴木公人先生との出会いも、高校で笠井先生と出会った事と合わせて、その後の私の方向を決める出来事だったと思います。そして私は東京芸大の日本画科に進み、大学院を出てから私立成城学園の教師を9年間勤めました。クラス担任も任されていた事で時間的な制約から画業との両立が大変でした。学校で遅くまで仕事をして帰ってからの時間を絵に充てていました。教職で拘束され捻出した時間の中で集中して絵を描く。敢えて限界状況や逆境を自分に課し、それを乗り越える時に出来る物こそ真の芸術だと生意気にもそれがハングリーアートだと思い込んでいました。

 今、振り返るとこの時期は様々な出会いもあり、社会勉強が出来た充実した日々だったと思います。その後役職も増え物理的に両立が困難に思え、34歳で絵一本に絞る決心をし教職を辞しました。


 その翌年五島記念文化財団から美術新人賞をいただき、同財団の助成でイタリアに留学する事になります。数千年を経ても今とさほど変わらないような高度な文明を目の当たりにし、その時間の流れ、重さ、存在するエネルギーを感じ時の流れと空間の広がりを生涯のテーマにしようと考えるに至りました。つまり二次元の平面という画面に時空を封じ込めたいとの思いです。以来30年30余回のイタリアを初めとする渡欧を繰り返し、作画テーマを追求てきました。

 高校を卒業後、拠点を東京に置きましたがその原点は故郷の岩村田、そして岩高にあると思っております。在校生の皆さんはどうか岩高で学んだ事を誇りに思って夢を大きく持ち、必ず叶うといつも心から思い続けてほしいと思います。いつかきっと実現すると信じて。

 私も未だ道半ばと思っています。私の芸術の基礎を作っていただいた岩村田高校に今はひたすら感謝の日々です。

神の棲む街フィレンツェ(岩高玄関)
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