
1963年長野県生まれ。朝日新聞論説委員。茨城大学大学院理学研究科修士課程修了。
日興リサーチセンターを経て、1991年朝日新聞入社。社会部、科学部、オピニオン
編集部の記者やデスク、編集委員、科学医療部長などを経て2021年から現職。
日本記者クラブ企画委員なども務める。
著書
単著『「地震予知」の幻想‐地震学者たちが語る反省と限界‐』2014年新潮社
『コンビニ断ち脱スマホ‐便利さはほどほどで‐』2020年コモンズ
編著『日本列島ハザードマップ‐災害大国・迫る危機‐』2013年朝日新聞出版
共著『政治家よ‐不信を越える道はある‐』2000年朝日新聞社など
希望に満ちていない高校生活の始まりだった。入学式の朝、父親に「野沢北じゃないから、ぜんぜんうれしくない」と言われた。小海線で会った北高の友人たちのピカピカの校章がまぶしかった。
同じ中学出身の先輩たちからは、顔を見たら挨拶せよとの指示があり、「寄付金」も強要された。挨拶しても、先輩としての「威厳」のためか無視され続けた。
岩高だからと甘く考えて臨んだ最初の中間考査は、たしか176人中の168番だった。その後も上位とは縁遠い低空飛行が続き、英語は追試の常連だった。
最初の体育祭、出場したリレーのスタートでもみ合い、機械科の3年生を転ばせてしまった。すぐに校庭の片隅に呼び出され、怖そうなお兄さん方に囲まれた。近くにいた先生に目を向けても素通り。噂の神社に連れて行かれ、殴られると覚悟した。すると、いつも挨拶を無視する先輩が現れ、「後輩だ」と取りなしてくれた。
その後も挨拶を続けたのは言うまでもない。「掛け金なしの保険」のつもりでいたら、やがて「おう」と返してくれるようになり、何かと気にかけてくれていると人づてに聞いた。
課外活動は、物理班で天体写真を撮ったり、友人たちと落研同好会をつくって老人施設で演じたりした。班室でのだべり、書店通いも楽しかった。岩高祭で、実行委員会を好き勝手に仕切り、先輩たちが失敗した熱気球を飛ばしたのが高校時代の山場だった。
さて受験、親から「現役で国立」と厳命された。雑音ばかりのラジオ講座を聴き、放課後は友人たちと市立図書館で勉強し、通学時の小海線で問題を出し合った。理系だけど、なぜか国語が好きで、物理より政治経済が得意だったから、国語も社会も必須の共通一次は渡りに船。なんとか、茨城大学理学部に潜り込んだ。
◆進学、そして社会人に
大学の入学式、学部長が「おめでとう。みなさんが、ここにいるのは受験戦争に勝ったからか、負けたからか知りませんけれど」と挨拶した。みんな苦笑。またもや、トホホなスタートだった。
学部と修士課程で火山を研究した。東京大学出身の指導教官は「君らは頭が悪いのだから、データの数で勝負しろ。量は質に転化する」と言い放ち、フィールドで大量の岩石試料を収集し、分析することを課した。泥まみれ、単純作業の連続。部活のように鍛えられた。
就職は新聞記者を志望。自由そうな仕事で、噴火や災害の取材もできると考えた。当時は人気職種だったが、バブル期という追い風があり、朝日新聞社に採用された。まわりは有名な高校と大学を出た記者ばかり。失うものはない、失敗でも恥をかいても当然だと、
物怖じせずに取り組んだ。嫌う人もいた地道な作業もお手の物だ。
いまは、論説委員として社説を書いている。高校生活は、仕事の糧となっているだろうか。思えば、岩高も茨大も、どこか破れかぶれで、泥臭くもある。そんな環境がピカピカの同僚たちとは違う視点を育み、いつしか強みになっていたのかも知れない。
岩村田高等学校創立100周年記念誌「大浅岳より転載」